ぶりの根性焼き

いわゆるエッセイなのかもしれない

ばあちゃんが死んだ話〜当日編〜

2024年1月22日月曜日 17:30頃

制作の仕事で、公開直前のサービスサイトに208個のリンク切れを見つけてしまい、テンションダダ上がりした直後。

母からのけたたましい着信で、あ、と悟った。


ばあちゃんが、死んだ
転んで、死んだ

※シャボン玉のメロディで脳内再生してください





去年の6月、じいちゃんが倒れた。

数ヶ月の入院を経て「自宅で死にたい」と、自宅療養に切り替わった。

その頃から若干、ばあちゃんがボケた(らしい。私はよくわからなかった)
どっちが先に逝くかねえ、なんて、どこの家庭でもよくある話だろうが、先にばあちゃんが弱るなんてことは考えられなかった。

ばあちゃんはいつも言ってた。
「早く死にたいよ。苦しまずにぽっくり死ぬのが、一番の願いで夢なんだもの。」





ばあちゃんは、かなりロックでクラシックな人だった。

幼少期にお父さん(私のひいじいちゃん)が亡くなり、お母さん(私のひいばあちゃん)が女手ひとつで、ばあちゃんとその妹2人を育てた。
高校卒業前に戦争が始まり、学業をやってらんない状態になるのを余儀なくされた。そういう世代。

戦争中も、終わってからも、2人の妹がいる家庭を支えるために、洋裁をしていた。
ばあちゃんちの作業机のミシンは重厚で気高く、針も「刺されたらやばい」と背筋がブルっとするような、見たことないものがたくさん並んでいた。

戦争が終わると、洋裁の道で第一人者になるため、フランスに渡ったり、ドイツに勉強しに行ったり、なんなりしていたそうだ。ちょっとうろ覚えでごめんばあちゃん…
主にピアノの発表会用のドレスを作る仕事をしていて、私と同じく、いわゆる個人事業主だった。

ばあちゃんの作るドレスは繊細で強かで、クラシカルで色がちょっとダサいけど、特にレースの使い方はまるで花畑のように美しかった。

ばあちゃんはいつも言ってた。
「洋裁なんかやりたくなかったよ。私は数学や物理が好きでね、戦争さえなければ、ずっと勉強していたかったのに。」





ばあちゃんとじいちゃんは、お見合い結婚だった。

じいちゃんは福岡で中学校の先生をしていた。担当科目は美術で、退いてからも、倒れる直前まで日本画家として活動し、数年に一度は展示会を開いていた。

じいちゃんは、九州男児、という言葉からはかけ離れた人で、ばあちゃんのプンスカをいつもにこにこしながら眺めていた。
常に丁寧にばあちゃんに寄り添って、支えていた。じいちゃんはまるで、ばあちゃんのために生まれてきたような人だった。

ばあちゃんはいつも言ってた。
「結婚なんかしたくなかったよ。私は洋裁で一人前になるために、もっと働きたかったのに。いつ離婚しようか、いつも悩んでる。」

そう言うおばあちゃんを、じいちゃんはいつだって、ゆっくりとにこにこ見守っていた。





2019年、家庭に超ヘビー級の出来事が起こり、私は家族親族全員と絶縁をした。
その中で唯一縁を切らなかったのは、ばあちゃんとじいちゃんだけだった。

正直「お金に困ったら頼ろう!」という大変に打算的な心からの行いだった(ヘビー級の諸々ですっ飛んだんだもん…)

でも、ばあちゃんもじいちゃんも、私が家族と縁を切ったことについて、一切否定も説教もしなかった。
それどころか、褒めてくれた。

ばあちゃんはいつも言ってた。
「苦労は買ってでもしなさい。絶対に力になるから。」
「私は、自立するのが夢だった。誰にも頼らないで、一人で生きていくことはとても尊いことだよ。苦労をした人にしか見えない、素晴らしい世界があるから。」


親が叶えられなかった夢を子供に叶えさせる、みたいな話はよく聞くもので、私もこの時 あっ と気付いた。
ばあちゃんが叶えられなかった夢を、私が叶えているのかもしれない。

だから、ものすごく応援してくれた。
教育に興味がない両親の代わりに、幼少期から勉強に関して、金銭的にも精神的にも応援して支えになってくれた。
白砂糖を禁止していた母の元では絶対口にできない、チョコレートや三ツ矢サイダーを与えてくれた。
講師になった時も、誰よりも喜んでくれて、にっこにっこしていた。
この年になっても結婚しない私に対して「いい人はいないのか」なんて無粋なこと、聞いてきたことはなかった。
苦しくて電話した時も、嬉しくて電話した時も「ぶりちゃんの声は、聞く人を元気にさせるから、おばあちゃん大好きだよ。今日も元気をくれてありがとう。」と、いつだって言ってくれた。

今の私で在るのは間違いなく、ばあちゃんの支えがあったからだし、ばあちゃんの血が色濃く流れているからだ。

と、ここまで書いた深夜0:42、やっと、泣けた。

ばあちゃん、死んだんだな。





「ずっと ぽっくり逝きたい って言ってたもんねえ。やっぱ言い続けると願いって叶うんだね!わはは」

母からの電話を切った後、今日この後何をすればいいのか、明日仕事で何をすればいいのか、よくわかんなくてぽやぽやしていた。
信頼できる友人達に「ばあちゃん死んだわ」と伝えながら、仕事のハドルミーティングをしながら、予定を見ながら、やることをまとめながら、何をしているのかよくわからなくなってきた。

実感もないから、悲しさもない。感情もない。
ただ「何か」が足りない。

とりあえず、カレンダーに入っている「メガネを取りに行く」を処理しよう、と、ゾフへ向かった。





無事メガネをゲットし、煌びやかな街を歩きながら、キャッチの可愛いおねーちゃんを見てふと「風俗行きたいな」と思った。
可愛いおねーちゃんとちょっとエッチな話を15分だけして、ありがと、って帰りたい。なんだその欲は?

とりあえず、温かいものを食べたい。
どんな時でも食べられるし眠れる。サバイバーが身につけた素敵なスキル。

鍋焼きうどんのつもりだったけれども、口がラーメンだったため、お気に入りのラーメン屋へ。麺が変わってて絶望した。





友達や母とはテキストで会話していたけれども、やっぱり人と、できればあまり知らない人と話したかったから、なんとなく飲み屋へ立ち寄った。
ウクライナ人の元警察官の女性がママさんをしている飲み屋。いつもお客さんが濃い。

「やっほー!またきてくれてありがと!今日はお酒飲むでしょ?」(前回はバチャ前だったから飲まなかった)

梅酒のお湯割を頼んで、甘いものが食べたーい、と頼むと、トッポをくれた。
そして ばあちゃんがさっき死んだんですよねえ と口にすると、他のお客さんも話を色々してくれた。
話しながら、遺影になりそうな写真を送ったり、不謹慎なのは分かってるけど斎場からの配信って超シュールすぎる!って笑ったりしていた。

最終的に、米国大使館の人から名刺をもらい、帰宅した(詳細は割愛)

でも、やっぱり、空っぽになりそうでこわかった。
母も私も悲しむことなく、へらへら笑ってギャグ飛ばしているの、なんかおかしいんじゃないか?





少し前に「祖父が癌になった」と泣きながら電話かけてきた友達がいた。

「僕は祖父が癌になって悲しむべきなのに、最初に出てきたのが あの書類にハンコ押してもらわないとなー だったことが、とても気持ち悪い。自分が許せない。」

その時は「尿意と便意が同時に沸いた時、どちらか片方が最初に出ますよね。つまり、どっちが先に出るかなんて、ただの運ですから。それと同じかもですよ。うんだけに。」

という、ひっどい例えで返したら、納得して笑ってくれたのだが(友達がいい人すぎるだけなので、絶対に真似してはいけません)
今ならわかるよ。


自分がかなしんでいないことが、悲しい
そして、自分が悲しむことで、誰にも迷惑をかけたくない

と同時に、実際そこまで悲しくない。だって、まだわからない。
ばあちゃん、死んだのか?





じいちゃんは知らせを聞いた時
「ありゃーそれは困った、先に逝ってしまったか。僕だけ残してどうして、急に!」
と、びっくりした後、落ち着いたら寝てしまったとのこと。


早くて明日(日付的には今日)、お通夜がある。
「数珠持ってなくね?いや、ばあちゃんの引き出しにあるからそれ使おっか」とか「1ヶ月前まで就活しててよかったー!ちゃんと黒い上下があるー!!」とか、母とへらへらし合っている私は、ちゃんと悲しめるのだろうか。自信がない。

でもきっと、先週のユニビ登壇5分前、急に緊張したように、斎場に近づいたら嫌でもわかるんだろうな。



ばあちゃんは、死んだんだ。