ぶりの根性焼き

いわゆるエッセイなのかもしれない

ばあちゃんが死んだ話〜当日編〜

2024年1月22日月曜日 17:30頃

制作の仕事で、公開直前のサービスサイトに208個のリンク切れを見つけてしまい、テンションダダ上がりした直後。

母からのけたたましい着信で、あ、と悟った。


ばあちゃんが、死んだ
転んで、死んだ

※シャボン玉のメロディで脳内再生してください





去年の6月、じいちゃんが倒れた。

数ヶ月の入院を経て「自宅で死にたい」と、自宅療養に切り替わった。

その頃から若干、ばあちゃんがボケた(らしい。私はよくわからなかった)
どっちが先に逝くかねえ、なんて、どこの家庭でもよくある話だろうが、先にばあちゃんが弱るなんてことは考えられなかった。

ばあちゃんはいつも言ってた。
「早く死にたいよ。苦しまずにぽっくり死ぬのが、一番の願いで夢なんだもの。」





ばあちゃんは、かなりロックでクラシックな人だった。

幼少期にお父さん(私のひいじいちゃん)が亡くなり、お母さん(私のひいばあちゃん)が女手ひとつで、ばあちゃんとその妹2人を育てた。
高校卒業前に戦争が始まり、学業をやってらんない状態になるのを余儀なくされた。そういう世代。

戦争中も、終わってからも、2人の妹がいる家庭を支えるために、洋裁をしていた。
ばあちゃんちの作業机のミシンは重厚で気高く、針も「刺されたらやばい」と背筋がブルっとするような、見たことないものがたくさん並んでいた。

戦争が終わると、洋裁の道で第一人者になるため、フランスに渡ったり、ドイツに勉強しに行ったり、なんなりしていたそうだ。ちょっとうろ覚えでごめんばあちゃん…
主にピアノの発表会用のドレスを作る仕事をしていて、私と同じく、いわゆる個人事業主だった。

ばあちゃんの作るドレスは繊細で強かで、クラシカルで色がちょっとダサいけど、特にレースの使い方はまるで花畑のように美しかった。

ばあちゃんはいつも言ってた。
「洋裁なんかやりたくなかったよ。私は数学や物理が好きでね、戦争さえなければ、ずっと勉強していたかったのに。」





ばあちゃんとじいちゃんは、お見合い結婚だった。

じいちゃんは福岡で中学校の先生をしていた。担当科目は美術で、退いてからも、倒れる直前まで日本画家として活動し、数年に一度は展示会を開いていた。

じいちゃんは、九州男児、という言葉からはかけ離れた人で、ばあちゃんのプンスカをいつもにこにこしながら眺めていた。
常に丁寧にばあちゃんに寄り添って、支えていた。じいちゃんはまるで、ばあちゃんのために生まれてきたような人だった。

ばあちゃんはいつも言ってた。
「結婚なんかしたくなかったよ。私は洋裁で一人前になるために、もっと働きたかったのに。いつ離婚しようか、いつも悩んでる。」

そう言うおばあちゃんを、じいちゃんはいつだって、ゆっくりとにこにこ見守っていた。





2019年、家庭に超ヘビー級の出来事が起こり、私は家族親族全員と絶縁をした。
その中で唯一縁を切らなかったのは、ばあちゃんとじいちゃんだけだった。

正直「お金に困ったら頼ろう!」という大変に打算的な心からの行いだった(ヘビー級の諸々ですっ飛んだんだもん…)

でも、ばあちゃんもじいちゃんも、私が家族と縁を切ったことについて、一切否定も説教もしなかった。
それどころか、褒めてくれた。

ばあちゃんはいつも言ってた。
「苦労は買ってでもしなさい。絶対に力になるから。」
「私は、自立するのが夢だった。誰にも頼らないで、一人で生きていくことはとても尊いことだよ。苦労をした人にしか見えない、素晴らしい世界があるから。」


親が叶えられなかった夢を子供に叶えさせる、みたいな話はよく聞くもので、私もこの時 あっ と気付いた。
ばあちゃんが叶えられなかった夢を、私が叶えているのかもしれない。

だから、ものすごく応援してくれた。
教育に興味がない両親の代わりに、幼少期から勉強に関して、金銭的にも精神的にも応援して支えになってくれた。
白砂糖を禁止していた母の元では絶対口にできない、チョコレートや三ツ矢サイダーを与えてくれた。
講師になった時も、誰よりも喜んでくれて、にっこにっこしていた。
この年になっても結婚しない私に対して「いい人はいないのか」なんて無粋なこと、聞いてきたことはなかった。
苦しくて電話した時も、嬉しくて電話した時も「ぶりちゃんの声は、聞く人を元気にさせるから、おばあちゃん大好きだよ。今日も元気をくれてありがとう。」と、いつだって言ってくれた。

今の私で在るのは間違いなく、ばあちゃんの支えがあったからだし、ばあちゃんの血が色濃く流れているからだ。

と、ここまで書いた深夜0:42、やっと、泣けた。

ばあちゃん、死んだんだな。





「ずっと ぽっくり逝きたい って言ってたもんねえ。やっぱ言い続けると願いって叶うんだね!わはは」

母からの電話を切った後、今日この後何をすればいいのか、明日仕事で何をすればいいのか、よくわかんなくてぽやぽやしていた。
信頼できる友人達に「ばあちゃん死んだわ」と伝えながら、仕事のハドルミーティングをしながら、予定を見ながら、やることをまとめながら、何をしているのかよくわからなくなってきた。

実感もないから、悲しさもない。感情もない。
ただ「何か」が足りない。

とりあえず、カレンダーに入っている「メガネを取りに行く」を処理しよう、と、ゾフへ向かった。





無事メガネをゲットし、煌びやかな街を歩きながら、キャッチの可愛いおねーちゃんを見てふと「風俗行きたいな」と思った。
可愛いおねーちゃんとちょっとエッチな話を15分だけして、ありがと、って帰りたい。なんだその欲は?

とりあえず、温かいものを食べたい。
どんな時でも食べられるし眠れる。サバイバーが身につけた素敵なスキル。

鍋焼きうどんのつもりだったけれども、口がラーメンだったため、お気に入りのラーメン屋へ。麺が変わってて絶望した。





友達や母とはテキストで会話していたけれども、やっぱり人と、できればあまり知らない人と話したかったから、なんとなく飲み屋へ立ち寄った。
ウクライナ人の元警察官の女性がママさんをしている飲み屋。いつもお客さんが濃い。

「やっほー!またきてくれてありがと!今日はお酒飲むでしょ?」(前回はバチャ前だったから飲まなかった)

梅酒のお湯割を頼んで、甘いものが食べたーい、と頼むと、トッポをくれた。
そして ばあちゃんがさっき死んだんですよねえ と口にすると、他のお客さんも話を色々してくれた。
話しながら、遺影になりそうな写真を送ったり、不謹慎なのは分かってるけど斎場からの配信って超シュールすぎる!って笑ったりしていた。

最終的に、米国大使館の人から名刺をもらい、帰宅した(詳細は割愛)

でも、やっぱり、空っぽになりそうでこわかった。
母も私も悲しむことなく、へらへら笑ってギャグ飛ばしているの、なんかおかしいんじゃないか?





少し前に「祖父が癌になった」と泣きながら電話かけてきた友達がいた。

「僕は祖父が癌になって悲しむべきなのに、最初に出てきたのが あの書類にハンコ押してもらわないとなー だったことが、とても気持ち悪い。自分が許せない。」

その時は「尿意と便意が同時に沸いた時、どちらか片方が最初に出ますよね。つまり、どっちが先に出るかなんて、ただの運ですから。それと同じかもですよ。うんだけに。」

という、ひっどい例えで返したら、納得して笑ってくれたのだが(友達がいい人すぎるだけなので、絶対に真似してはいけません)
今ならわかるよ。


自分がかなしんでいないことが、悲しい
そして、自分が悲しむことで、誰にも迷惑をかけたくない

と同時に、実際そこまで悲しくない。だって、まだわからない。
ばあちゃん、死んだのか?





じいちゃんは知らせを聞いた時
「ありゃーそれは困った、先に逝ってしまったか。僕だけ残してどうして、急に!」
と、びっくりした後、落ち着いたら寝てしまったとのこと。


早くて明日(日付的には今日)、お通夜がある。
「数珠持ってなくね?いや、ばあちゃんの引き出しにあるからそれ使おっか」とか「1ヶ月前まで就活しててよかったー!ちゃんと黒い上下があるー!!」とか、母とへらへらし合っている私は、ちゃんと悲しめるのだろうか。自信がない。

でもきっと、先週のユニビ登壇5分前、急に緊張したように、斎場に近づいたら嫌でもわかるんだろうな。



ばあちゃんは、死んだんだ。

ユニクロを馬鹿にすると痛い目を見るぞ?

おようふくアドベントカレンダー の1日目を担当させていただくburiodenです!どうもー!

はじめに

強いタイトルにしちゃいましたが、本筋としては「見た目を変える第一歩を踏み出したいけど、変え過ぎたくない(大事)」というこころに向け、たらたらと語るたらこクリームスパゲッティみたいなゆるい記事です。

このテーマにしたきっかけは、転職(もはや就活)でおようふくがひつよう…になり、ひさびさに出向いたユニクロで、とっても感動したからです!

そして、過去から抱いていたやわ〜いブラック感情の発散も、目的だったり。

あなたのまわりにも、いませんか…?

「見た目を変えたい」と相談された時、ユニクロを勧めると「ユニクロはなあ…」という反応をする人類……

まーじで、舐めんなよ?(CV.なんかのイケボ声優)

おようふく選びで大事なこと2つ

さて問題です!ででん!
ハンガーにかかってるなど着てない状態のおようふくと、着た状態のおようふくを比べると、何が変わっているでしょう?

ちちち………

…どうですか?

正解(想定解)は「次元」です!
あっ、て、定義は、いまは置いとかせて!イメージのはなし!

さて。
人々の体には様々なバランスがあり、一人ひとりが異なったでこぼこを持っています。 つまり(あたりまえですが)おようふくを着せる身体は、3Dですね!

でも、おようふく自体は、2Dっぽくないですか?布だし…

そんな2D状態のおようふくが、着られて3D状態になったとき、いかにマイボディを「魅せ」てくれるか?が、俗に言う形の綺麗さなのです!

2D→3Dで、とっつきやすく形が綺麗になるものは、XXLなどの大きめのおようふく、いわゆる「オーバーサイズ」です。フォーリミのGENちゃんがめっちゃオーバーサイズ上手に着るから見て欲しい
でも、ただでっかい!なおようふくだと、おとうさんのやつ借りた幼女になっちゃいますね。つまり幼女になれます!それはうそでしたね…

ぴったりめのものを着るのが苦手な方も、ぜひユニクロの3Dニットなどを実際に着てみてほしいです。

2D状態じゃわからなかったおようふくの本領が発揮され、自分の身体がきれいに見えます!とっても感動しますよ!
※比較画像とか入れたいのですが、残念ながらモデルさんは何着ても綺麗だ。そして、わたしの手元にあったユニクロのTシャツは神にあげちゃった…うううう…

例えばロンTとか

www.uniqlo.com

ショートパンツとか

www.uniqlo.com

これら、毎年買いたい!
モデルさんが外国の方だから、写真ではあまりしっくりこないけれど、実際着ると良い!日本人向けに作られているのか、めっちゃ形よい〜!

レディースだと、これが実際きた時に形良くてびっくりしちゃった!

www.uniqlo.com

ついつい、好きな色や、着やすい色ばかり、選んでませんか…?
わかります(わかるので)

これもかたちと同じ考え方です!「自分の肌を、よく見せてくれる色」を選んでみましょ!

「そんなん、わからんよ…」というきもち、わかります(わかるので)
こればっかは、あの…着ないとわからんねえ…

でも、「自分の肌をよく見せてくれるか」を意識して試着するようになってから、色で悩むことがすくなくなりました

ざっくりですが

  • よく「色白」と言われるさん:青〜水色、グレー、オフホワイト、ベージュ、くすんだ黒など

  • 肌についてあんま突っ込まれないさん:緑、紺、濃い赤など

の方が扱いやすいイメージはあります…!
いわゆる「こっくり」や「くすみ」カラーを選ぶとよいです。カラーコードでいうとfと0を避けるかんじですかね。伝わりづらいですね。すめん。。

いちおう色彩コーディネーター2級なのおもいだした。

引用元

この

  • ライトグレイッシュ
  • ダル
  • ダーク
  • ディープ

あたりを選び、なるだけビビット(純色や、原色)を避けると、肌馴染みがよくなりがち!

で、どうしてユニクロを推すのか

趣旨にもある「見た目を変える第一歩を踏み出したいけど、変え過ぎたくない」に、ユニクロはとてもよいのです!

なぜなら、研究された「形」と「色」が、揃ってるんですよねえ。すごいです…

ところで。
おしゃれになりたい!というとき…「アイテム」を揃えていませんか?
そうすると、今の服と乖離がありすぎて、結局使わない…使い道がわからない…に、なりますよね。わたしはなります。

つまり!ででん!

ユニクロで、選ぶ「アイテム」はいままでと同じくで「色と形」を変えてみましょー!
めっちゃ変わったのに、頑張りすぎてない「ちょうどよい」がそこに現れます…!!

そして、試着が大事!当てて似合わない服、着ると似合いがち。その逆もよくあり。
ユニクロはサイズ展開がありすぎて悩む…けど、だからこそ「自分を綺麗に見せてくれる服」に、出会えます。自分にぴったりなサイズがあるの、うれしー

あと店員さんが話しかけてこなくてとてもよい

とはいえ、追加するとべんりなアイテムもある

それは…「ベルト」です!これももちろんユニクロで買っちゃいましょ
たとえば、ちょっとシャツINしたい時も、こういうシンプルなベルトがあるだけでめちゃくちゃ映えます。ばえ〜

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勝手に一問一答コーナー

ここからはユニクロ関係なく、好きに語らせてください!!(?!?!)

流行を気にした方がよい?

うーん、個人的にはどっちでもよいかな…と思います!
いちお、とりあえずユニクロZARAをさらっと見て、最近の雰囲気を掴む、みたいなことはやってます。 が、流行っているものと自分の好み・似合う傾向が違うことも往々にしてあるので、取り入れたい時は取り入れる、って感じです!
たとえば、ギャルファッションは興味がないし。オタクに優しいギャルは興味ありますが

サイズ選びのコツは?

形のところで書いた「自分をよく魅せてくれるかたち」に出会ったら

  • 身幅
  • 肩幅
  • 着丈

を計って、覚えておくとよいです!
着丈は判断から抜いちゃってもよいけど、肩幅身幅はたいへん当てになるので、覚えておくのすっごくおすすめです

引用元

洗濯はどうすれば?

ユニクロの服はなんも考えないで洗濯機突っ込んでOK!なのが好きポイントなのですが、ニット系は100均で売ってるネットとかに入れてあげるとやさしく、毛玉になりにくく、長持ちします!

せっかくおしゃれになっても匂いがあんまり…だとかなしいので

は揃えておくとよいです。特にオキシクリーン!! 洗濯槽が空いたらさっと入れておく癖をつけておくと、びっくりするほど匂わなくなります。柔軟剤の匂いもやさしく残るようになるし。ほんとうにすごい〜すき!

個人的には、乾燥機かけた方がシワ取れるので好きです。最近の乾燥機、優秀がち。 ニットはまだかけるの避けるけど…

※洗剤と柔軟剤はマニアすぎるので、せっかくなら語りたいが我慢した。またいつか別の機会に…

古着はどうなの?

ユニクロの古着、という意味ならおすすめしないです。着古されて形が崩れているのが多い…
「安く服を揃えたい」のであればGUに行った方が確実によいです!布の値段でうってる!すごい

古着でおしゃれは、かなり上級者向け!リサイクルショップの服着てる人になりがち…!
古着屋≠リサイクルショップ、だけ覚えておくと、よいかも!

同じ服ばかりになっちゃう…

わかります!(大泣)
おようふくを買いに行く前に必ずやっている、おすすめムーブが!あります!!ででんっ

「服を全部引っ張り出して、色、形、アイテム別に仕分けする」です!

これをやると、何色の系統が多い(少ない)や、どのアイテムが足りないかなどがわかります。

分け方は正直てきとうでも大丈夫です。まずはやってみましょ✌️
買う前にやる!を繰り返すと、自分なりの分け方が手に入り、かつ、着ない服を買うことがめっちゃ少なくなります!

ステップアップしたい!

とりあえずパルコ行きましょ!そして、気になったお店にとりあえず入ってみましょ!

おようふくとまだ仲良くなれてないなーってときに、いちばん大事なのは「試着」です。
実際に着て、自分をよく見せてくれるか、をはかるのがとてもだいじ。

お店行くの苦手、時間がない…ネットショップで済ませたい

わかります…わかりすぎて頷きすぎてくびがもげそう

amazonPrime Try Before You Buy というステキサービスがあります! 送料無料でいくらでも試し放題(1回につき4点まで) 靴とかかばんが多めです。靴と鞄はいつもamazonで試している

ちなみに…店員さんは意外と味方なので、高い服買う時とか、そのブランドで最初の1枚とかは、相談相手にしちゃいましょ!
試着する時は、サンクコスト(時間や感情などをかけたものを、リターンとして手に入れたくなる心理効果)のことを心に留めておき、着た状態で鏡を見た時に、自分がよく見えてなければ遠慮なく戻すのがコツです。
いらんものは買わんで良いのだ!

高いものの方が良いとかある?

「良さ」の軸がなにかにもよりますが、個人的には値段と比例するもの、耐久性とブランド力くらいかなあと思ってます。
結局どんなに高い衣類で耐久性があっても、消耗品であることには変わりがなく、それこそ洗濯の仕方や保管の仕方に左右されがち、など…

とはいえブランド系は唯一無二のものが多いので「こ、これだあ」ってなったら、お迎えしちゃえー!

よく「おしゃれは足元から!」っていうけど、どうすれば?

そのとーり!
ですが、まずはよい形のTシャツとか揃えて、余裕が出てきたら!で大丈夫です👌

靴下は、靴下屋の3足1000円のものを通販するのがすきです。かわいいし、色がよくて、長持ち!
靴は、これも形と色が整ってるものを軸に…スニーカーだとニューバランス574シリーズとか、ML850シリーズ(最近見ないな…)とか、え、どうしよう57/40かわいい…あっ

とにかく、ニューバランスか、NIKEを買っておけば大丈夫!必ず服の棚卸してから、同系統の色を買いましょ!オフホワイトとかベージュが一足あるとうれしくなれます
革靴ならドクターマーチン一択。それ以外は慣れてきたらでよい気がします!

慣れてくると、靴と靴下の組み合わせで遊べるの、とってもたのしー

かばんに悩む…

悩んだらスポーツブランドのリュックさんか、ボディバック!
リュックとかボディバッグが合うおようふくたちにしておくと、とても楽がち。楽がいちばんいいよ〜

男性でカジュアル気味ならば、キャンプ用品扱っている系のスポーツ用品店に行くのがいちばんよいかもです。L-Breathとか!

KELTYGregoryNorthFaceを買っておけば間違いない感があります。それこそスポーツ用品店の人は話しかけてこないので!ラッキー!

前述したPrime Try Before You Buyを使うとなおハッピー! Gregoryのペイズリー系はきれいめにも合うし、革もなんやかんやスポーツ系周りのやつが機能性良くて可愛かったりする。

コーデ一式で買った方がよい?

仕分けした内容にもよります。
それこそ「やべえ、Tシャツしかない」みたいな時は、セットアップ買ったらすんごい楽になる時もあるので!

友人や恋人などに「こういう系統着てほしい」と言われ、自分の所持服では系統がまかないきれない時はコーデ一式で買っちゃうのはありありのありです!

やらないほうが良いこと、ある?

おようふく選びによる一番の失敗は「幅を広げようとする」ことですかねえ(それが好きならばもちろんおっけー!)
あと、同じ服を着続ける、かな。アップデートされなくてかなしいのは、服も同じ。

おようふくを選ぶコツは?

2つ意識してることがありまして

  • 自分が着ていてたのしい
  • 自分をよりよく見せてくれる

どっちの目的で服を買うのか?を考え、持っている服の比率としても自分のちょうど良いところを探してあげると、毎日うれしくなれます! ちなみに、いまわたしは「自分が着ていて楽しい9: 自分をよりよく見せてくれる1」なので、もうちょっと後者を増やしたほうがいいですね…ぐぬぬ

おまけ:おようふく来歴

〜小学生

貧困かつ引きこもりだったので…バザーとかで母が買ってくれた謎のやつなどでした。メゾピアノとか、GAPとか、とても憧れていた。 「GAPのジーンズが履けないやつはデブ」という言葉をすごくすごく気にして、GAPを着れるように頑張っていた時期もあった。

中学生

このあたりから家庭が安定し始めたこと、バイトをやったりしたので服に興味を持ち始める。 しかも、ゴシックパンクに。痛い痛い痛いだった…

高校生

人生でいちばんおようふく買っていたのではないか? いろんな系統に触れた。ゴスロリ、ゴスパン、スポーティ、森ガール(流行ってたなあ)、アメカジ、エスニック(マライカとか)など。 ここで似合う似合わないのベースを作った。

大学生

基本的に森ガールとカジュアルで生きていた。森ガールしていると人が優しくしてくれたので(厄介者に見えるからかしら) 金髪と融和性が高かったんだよなあ
いわゆる原宿系で、原宿に行きまくっていた。melrotと、もう消滅してしまったがWonder Rocketが大好きだった。消滅した時にショックすぎてブランド名を忘却したけど、思い出せるもんだな。

サマンサモスモスを着て轟音ギターかきならすの、ふへへ、ってかんじだった

20代前半

急激に30kg太ったのでたいへんだった。
いちばんおようふく記憶が薄いかも…だいたいバンドのグッズで生きていた。

働きはじめたのもあり、きれいめと古着をミックスしながら着ていた。さすがに森ガールは卒業していた。 A-net系とAMBIDEX系、POU DOU DOUにハマっていた。特にアトリエドゥサボンの水彩ワンピースはずっと夢で、20代後半で買えた時、本当に嬉しかった。

20代後半

ちゃんと体重を戻したあと、どんな服着ても似合ったのでうれしかった!楽なのでワンピース中心に生きていた。
自分が圧倒的小花柄似合わないマンだと知って悲しんでいた。流行ってたし可愛かったのに。。

このあたりから「似合う服」と「着たい服」に乖離が出はじめ、だからこそユニクロ / GUに頼るようになった。Ne-netが消えたのも要因として大きかったな。
新宿ミロードやラフォーレに行けば好きな服屋は全て入っていた。FRAPBOISの一般向け的な服が好きだった。

28歳でまた30kg太って、29歳で15kg落とし、現在も継続して上下している…うううう 29歳でとんでもないミニマリストになったときにも、Ne-netの綺麗めワンピースにはお世話になっていた。F.i.n.tとかflowerとかパラビオンもすきだったなー

現在(32歳)

在宅勤務フリーランスに移行してから、楽な服ばかり着てしまうようになった。バンドのグッズが可愛すぎるのがいけない。けしからんぞ04 limited sazabysKing Gnu

とはいえ好きなブランドはある。 形が綺麗なゆるめきれいめのnotch、かわいいワンピースといえばmerry jenny、長く着たい系(冬物)はBEAMSUNITED ARROWS系列だとgreen rabel relaxingがすき。そう考えるとだいぶ落ち着いた

だいたい、気になるおようふくはメルカリとZOZOTOWNと街ゆく人で出会っている。さいきんだとAS2OVスエードの巾着かばんがほしい…溢れ出る欲…

まとめ

いろいろ語ってしまってもうスパゲッティものびのびですが…とにもかくにも

自分のボディラインと、肌をよく見せてくれるおようふくを、ユニクロでみつけてみよう!

です!

いっぱい失敗して慣れてく、みたいなのはしなくていいと思います(むしろわたしみたいな失敗凝縮を読んでいただき、それで疑似経験してもろて!)

自分にとってよいものを選択し、洗濯していきましょう!

読んでくださって、ありがとうございました! すてきなおようふくライフを👕

不登校児が願い続けた「普通になりたい」を忘れた話

爆誕

幼稚園時代からの培があるため、幼少期についても簡単に。

 

神奈川県鎌倉市にて爆誕。父親はフリーランスのカメラマン、母は自由人(という言葉がしっくりくる)で、家は大変に貧困…というか、事業が一杯一杯で、子供にお金をかける余裕がなかった、が正しいかも。

おやつはにぼしだったし、おもちゃも買ってもらえなかった。

 

3歳まで発語ができなく、その後も吃音に苦しんだ。

人がいると公園に入れなくて、いなくなるまで、入り口で待つ。
夜になってやっと人がいなくなってから、恐る恐る入り、ひとり無言でブランコを楽しむ。そういう幼少期だった。

 

幼稚園

近くにあるキリスト教の幼稚園に、年中から通った。

児童養護施設から通っている子たちと、鎌倉特有の裕福な家庭の子たちの間の、階級差がすっごかった。
私はどちらかというと施設の子といたけど、どちらともうまくコミュニケーションがとれなかった。話すというか、自分で考えたことを言葉にするのに激しく時間がかかるタイプで、いつも困って怒っていた。

早生まれで発育が遅いのもあって、ひとつ下の学年とは気が合い、いっしょになって黙ってずっと砂場を掘り続けてたら「同じ学年のこと遊びなさい」と、めちゃくちゃ叱られたこともあった。

なんかやってしまったのか、裕福側のお子様方に囲まれてボコボコにされたことをきっかけに、みんなが外にいる時間は、室内で水彩画を教えてもらうようになった。

 

この頃からぼんやり「漫画家になりたい」と思い始めた。

漫画やアニメは禁止されていたので、ずっと本を読んでいた。
幼稚園で貰った新約聖書を読み込んで、暗唱するのが趣味だったらしい。人の言葉で喋る練習をしていたみたい。

演劇の台本も丸暗記して、セリフもスラスラ言えていた。が、やっぱり自分の言葉では、なかなか話せなかった。

 

小学校

1〜2年生

近くの公立小学校に進学。
全学年1クラスで、30人くらい。当時、すでに少子化で過疎っていた。

そんな環境だから、一回失敗すると、逃げられなかったのかもしれない。
きっかけは忘れたけれど、1年生の時点でもう殴る蹴る、水槽でボコボコにするなど、身体的暴力系のいじめでサンドバッグになってた。

 

母は「学校行かないとどう育つか知りたいから、むしろ行かないでいいよ!学費かからなくてたすかるー!」と嬉しそうに言っていた。
父は特に何も言ってこなかった。というか、家にいた記憶が希薄。

 

給食のわかめごはんとソフト麺がものすごく好きだった。
それらを食べるために、たま〜に行くと「アレルギーか?」ってくらい高熱を出し、保健室で寝込んでいた。卒業式で頂いた、保健室記録の多さと高熱の頻度を見て、たまげた。

 

「もう自分は学校行けないんだろうな」と、ひたすら絵を描いていた。

 

この頃は「普通になりたい」的な渇望もなく、たまーに学校行ってわかめごはん食って殴られて、たまたまテストだと受けて、満点取ると「お前カンニングしただろ」って殴られて、まあ仕方ないかあ、みたいな。
悲壮感ではなく「体が小さくてうまく話せないから、仕方ないか」と思う、とてもスレた小学生だった。

 

思い出してみると、そういえば進研ゼミはやっていた。テストの点が良かったのは完全にそのおかげだ…
入ってくる広告の漫画に心が躍って、母に土下座して、家事をめちゃくちゃやって、受講を承諾してもらえた。それからはもう、かじりつくようにチャレンジしてた。
確か、家事を1日放置したかなんかで解約されて、とても悲しかった。お金なかったから、仕方ないね。

 

3年生

父の仕事に使うためのWindows98がきた。

都道府県パズルやソリティアにハマって、ダイヤルアップに負荷かけないために、どのデータは重くて軽いのか、など学び始めた。

学校には、相変わらずわかめご飯食べに行ってた。

パソコンに目覚めてからゲームがやりたくなり、近所の男の子の家に64をやりに行き始めた。その男の子もあまり話さない子だったので、ふたりでひたすらスマブラをやり、すごい日は一言も発さず帰る。が、ルーティンになっていった。

この頃から近所の教会のゴスペルグループに入り、歌い始めた。
ちなみに、わたしは無宗教。強いていうなら、二次元という宗教に…

 

4年

Windows98がダメになり、代わりに魔のOS、Windows MEが来訪。

起動時に9割ブルスクが出る。おかげでブルスクに慣れた。
ソフトのエラーかハードのエラーか、ソフトのエラーならOSなのかミドルウェアなのか〜みたいなのは、ここら辺で感覚的に覚えていった。

いつの間にか父の仕事を手伝っていたり、PCのトラブルが起きたら直す人になっていった。引っ越したので、ゲームはやらなくなっていった。

 

6年

母が今まで貯めていてくれた私のお年玉で、WindowsXPを買ってくれた。NECのデスクトップ。

ここらへんから、デジタルで絵を描き、お絵描きチャットに常駐し、自分の言葉を伝えるいちばんの手段が「キーボード」であることを知った。
文字なら饒舌に話せた。相手の言葉を読み直せるし、自分の言葉を書き直せるから。

 

そうやってネッ友(笑)も出来始め、学校にはほぼ近寄らなくなった。

 

お絵描き友達は、ホームページビルダー使って作ったサイトに絵を載せていた。
無料版は使いづらく、結局HTML、CSSCGIをブログで独学し、メモ帳で書いて無料サーバーにアップする小学生となった。

 

Web周りの言語を学んでいて、やっぱり学校通いたいなあ、けれども地元の中学は、小学校の人たちがほぼ全員行くからなあ…と悩んでいたら、母が「受験する?」と言ってくれた。

インターネットマン、Googleを駆使し「新設で先輩がいない」という中学を発見。これならいけるかも?!と期待に胸を躍らせ、小学2年生のチャレンジを引っ張り出してきて勉強した。
試験では8割以上「わからねえ」と鉛筆を転がした。
それでなぜ受かったのかは謎だが、まあ、新設の私立の偏差値なんてたかが知れていたのである。

 

 

中学

1校目・私立 / 1年生

はじめての中間テストまでは、週3日はなんとか通った。病弱すぎた。

中間テストで学年3位になった瞬間、また拳でボコられ始めた。
それまで「仲良い」と思い込んでいた、ひまわりが好きな女の子がわたしを笑いながら踏み潰してきたときから、しばらく、ひまわりを見られなくなった。

 

2校目・公立 / 1〜2年生

仕方ないので転校し、小学校の人たちがいるところに出戻りした。
もちろんうまくいくはずもなく、吃音や病弱なことを理由に「障害児学級に行けよ」と、はじめて精神的いじめを受けた。

拳で殴られていないのに身体が痛くて、めっちゃびっくりした。

 

その後、インターネットに引きこもり、暗黒の厨二を迎える。
「普通になりたい」は、この頃の厨二病が巻き起こした嵐だったのかも知れない。

 

3校目・公立 / 3年生

きっかけは忘れてしまったのだが、なかったのかも知れない。急に隣の学区の中学に転校して、がんばることにした。

ここでは、いじめを受けなかった。むしろ、クラスメイトが「どうしたら学校これるかなー?」と、正直にたくさん話しかけてくれて、そんな優しい扱いを受けるの初めてで、激しく戸惑った。めっちゃキモかったと思う。

 

高校受験は、することにした。やっぱり学校に行きたくて。
色々調べて、横浜にある、不登校の子が集まる全日制の通信(やることは普通の学校と一緒、制服もある。が、単位制で、カリキュラムも普通とは違う)に行くことにした。

 

この時に出会った塾の先生のおかげで、わたしはいま先生をやっている。
わたしが授業中に不安でしくしく泣いても、にこにこ笑いながら、泣き止むのをずっと待っていてくれた。
学校でもない、家族でもない良い大人の存在が、いつもわたしの肯定感を育ててくれた。
許されている 殴られない と。

将来、不登校の子たちにとって、こういう「学校でもない、家族でもない良い大人」になりたい、と、ずっと思っていたのが、いつの間にか叶っていた。

 

結局、卒業式は雨でしんどくて行けなかったけど、そのあとにあったサイゼでの集まりに呼んでもらえた。
オレンジジュースとコーラを混ぜたり、ミラノ風ドリアで粘り続けたり…この日、私は唯一の「中学生の青春の日」を経験できた。

ほんとに、誰1人として仲間外れにしなくて、すごいクラスだった。

ちなみに、サイゼに誘ってくれた女の子たちは、みんなして成人式で成人代表を務めていて「さすがだな」とおもった。輝いておった。

 

高校

結論から言うと、また2校行った。

1校目 / 1年生

わりとちゃんと高校生していた。
はじめて現実の彼氏(察してくれ)ができて、家行ったり、カップル同士の4人組でカラオケ行ったりとか。学校が桜木町だったから、授業後にワールドポーターズでやっすいアクセサリー買ったりとか。普通をしていた!

 

入学時の学力テストの結果が良かったらしく、一番上のクラスに入ったし、中間テストでもちゃんと全体10位以内には入れた。
が、中学に通ってない、不登校児童がコンセプトの学校なので、一番上のクラスと言っても、通常のカリキュラム通りではなかった。確か、負の数あたりをやっていた記憶。
因数分解なんて夢のまた夢だった。

 

そんな学校だから、いじめは起きないと思っていたし、もし起きたら、絶対に助ける、と思っていた。

 

初夏のとある日、いわゆる「学校裏掲示板」があると知り、クラスの女の子が誹謗中傷されているのを見た時は、また心を殴られて痛くなった。
なんとかしなきゃ、と考え、職員室に行った。情報の先生に、掲示板を見せながら「ネットリテラシーの授業をしてください」と頼んだところ

「お前は人のことばかり考えてないで、自分のことだけを考えないと、将来損するぞ。俺はそんな授業はしない」

と言われ、ぷちんっ!となり、殴りかかってしまった。
やはり、血は湘南のヤンキーだったようです…

 

他の先生たちに止められ、事件になるのは免れた。
が、もちろんそれから行きづらくなり、彼氏は仲良くしてた4人のうちのもうひとりの女の子に浮気して別れ、誹謗中傷されてた女の子は学校に来なくなった(そのあと復活したらしいが)

 

ちょうどこの頃、さかなクンの「広い海では、魚たちはいじめをしません。けれども、狭い水槽に入れると、一匹をターゲットにして、いじめ始めるんです。かわいそうなのでターゲットを他の水槽に移すと、また違う魚をターゲットにしていじめ始めます」という言葉を知った記憶がある。社会に虚しさを感じていた。スレている。

 

学費がまあまあ高かったので、家のお財布のことも気になり、学費が安いところを探して、転校することにした。

 

母が「荷物、代わりに取りに行こうか?」と言ってくれたけど、なんかダサいな、と思い、ひとりで、授業中に取りに行った。
周りの視線はもちろん痛かったけれども、この時の「ちゃんと自分一人でやった」という経験が、このあとの人生の、強さの根幹になっている。

 

2校目 / 1年生

11月ごろ転校。

「神奈川県 私立 偏差値ランキング」で調べると、毎年最下位にいる、特別養護学校?かなんかも兼ねている通信制へ行った。
入学費・年間学費を合わせても、高校生のアルバイト代で払えるところだった。試験も、名前がひらがなで書ければOK。なんなら書けなくても入れた。
通学は週2日、うち1日は小学生レベルの英国数理社の授業、もう1日は「ゼミ」と呼ばれる、課外活動みたいなものをやっていた。
私は国際ゼミに入り、なんか、英語的な何かをやっていた。ほぼ記憶にないので、寝てた気がする。
通常授業は学力別に4段階でクラス分けされていて、1番下はアルファベットの書き順を3年間やり続け、1番上でも小学校高学年レベルの内容だったので、睡眠時間が増えた。
HRをやるクラスというか、自分の担当の先生、はいたけれど、生徒の入れ替わりが激しい(転校・行方不明・死亡…が日常的にあった)ため、他の人の名前はほぼ知らなかった。

 

1年生が終わるまで前の学校に通っていれば単位が移せたけれども、時期的にできず、1年分の単位を4ヶ月で取ることになった。
ここら辺は大学と同じで、レポートを出せば単位が取れる。ひたすら新聞紙を切り抜いて、感想を書いたりした。
おかげで無事、2年生になれた。

 

2年生

通っている学生は、とんでもなく様々だった。

中卒で社会に出てから入り直した土方のおっさん、芸能界を目指している2つ上のジャンヌのyasu被りの歌がまあまあうまい人、1日中冷蔵庫を開けたり閉めたりを繰り返す知的障害の男の子、モデルをやっていてなかなか学業に時間が割けない女の子、少年院から出たてで盗み癖がある女の子、お母さんが不倫相手と住んでて家に帰れなく、毎晩渋谷のクラブで泊めてくれる男を探すギャル、めっちゃ背高くてムキムキの暴走族のリーダーのギャル男、「今日は尾形先生のコスプレです」と、ようわからんが毎日コスプレをしてくるオタク、、など。

私服登校なので諸々自由だったし、誰もが「普通の高校生」では、なかった。

 

暇なので、週5日はバイトをし始めた。
デリバリーのキッチンで釜飯職人をやっていて、扶養ギリ超えるか超えないかの瀬戸際を攻めていた。
ここでたくさんの大学生と仲良くさせていただき、大学生、いいなあ。なりたいなあ。と思い始めた。

 

めっちゃバイトしてめっちゃライブ行ってめっちゃギター弾いてた。
バンドは、やりたかったけど、一緒にやれる人がいなかった。

一番仲良くしていた友達も音楽好きで、ベースを弾いてくれていたけど、ドラムがいなかった。
正しくはベースの女の子の彼氏が挑戦したが、いつの間にか辞めてたし別れていた。

結局「自分でドラム叩いて、録音して、流すか」という発想に至り、叩いたらよくわからんができたので、そのスタイルで練習していた。

 

人生初めての文化祭で、ELLEGARDENの高架線と、BUMP OF CHICKENメーデーを、座って歌って弾いた(もちろん、ドラムを叩いた録音も流した)

男装コンテストに飛び入りしたら、なんと優勝した。
性別がどちらでもない、の感じは、昔からあったけど、気づかなかったな。

 

そんな学校独特のエピソードを3つ

 

〜そのいち:暴走族のプロポーズ〜

ある日、授業中に轟音が聞こえてきて「なんだ?」って外を見たら、大量の白装束集団がバイクに乗って向かってきていた。
わらわらと窓際に人が集まり、暴走族たちが学校まえのスペースに止まると、リーゼントの男がバイクの上に立った。

 

「ゆかりいいい!!!俺、今日の喧嘩、絶対勝つから!!そしたら…結婚しよう!!!!」

 

名前を知らんギャルが「ゆうた…!!」と涙を溢している。
そうか、あなた、ゆかりっていうのね…と、状況がわかったらまた机に戻って寝てた。(何が起こっても基本的に驚かない性格はここで培われた)

 

〜そのに:リスニング不可能なTOEIC

国際ゼミで「TOEICに挑戦しよう!」という回があって、先生が頑張って教室受験できるようにしてくれた。

が、試験中に障害ある子が叫びまくっていたり、ギャルたちが大はしゃぎしていてリスニングが全て聞こえなかった。確か300点くらいだった気がする。

 

〜そのさん:モンハンは平和〜

ちなみに、いじめは、なかった。

休み時間に、ギャル、ギャル男、知的障害の子、オタク、が4人で必死にモンハンやっているのを見た時、ちょっとびっくりした。
どんなジャンルの人間も「棲み分け」をしっかりしつつ、やることは協力して一緒にやる、みたいな。そういう大人さはすごくあった。
おそらく、学校外での世界で過ごしてる時間が多い人ばかりだからだろうか。連れションとか、そういう変な馴れ合いとかはなかった。そういうところは、今でもとても尊敬している。

 

そんな学生生活で諸々マヒすることはあったけれども、バイトで社会性を保てていた。サンキューバイト。

 

高校3年生

初夏のとある日。
職員室前でパピコを開けた瞬間、急に「普通になりたい」と強く思った。
そして「そうだ。大学に入ろう!」となり、すぐ目の前にいた先生に聞いた。

「どうしたら大学に入れるかな」と、聞いたら「うちの学校からじゃ、系列の大学にしか推薦は出せないし、AOも実績がない。一般受験で受かった子も数人しかいなくて、全員塾に任せきりだったから、ごめん。何も力になれない」とのこと。

 

まじか〜…とがっかりはしたけれど諦めず、中学生の時通っていた塾のことを思い出した。

帰ってから母に伝えると「まあ、やってみなよ」とのことで、後日面談に行った。

 

塾長さんには、まず一番に「無理だと思う。浪人は覚悟してね」と、釘を刺された。

全てが抜け落ちてることも知ってくれていたし、ふだん全く勉強していないのも、もちろん話した上で。
通常の高校3年生が持ってる学力がほぼゼロの状態から、半年で受験レベルに持っていき、戦えるようにするのは、そりゃどう考えても不可能だった。

 

なので、まずは「絞る」ことにした。

受験科目が一番少ないのは慶應大学SFC(湘南藤沢キャンパス)で、小論文と英語さえできれば大丈夫、なので、そこに特化していこう、という話になった。

後日、SFCに行ったら、ギャルが多すぎてこわくて泣いた。

同級生の泥臭い強かなギャルとは違った、こう、笑いながら平気で人を刺しそうな明るさを感じ、ダメだった。

 

つらさのあまりその足ですぐ面談に行き、選択肢を増やしつつ科目を絞ると

・現代文

・古文

・政治経済

・英語

の4つになった。

 

我が家のお財布的に、2on1の授業を週2コマが限界だったため

・英語

・政治経済 / 現文 / 古文

の2コマを、週に1回ずつ。
基本的に自主学習して、授業ではわからないところを60分間ひたすら質問攻め、みたいな感じになっていた。
隣の子には申し訳なさと共に、よく呪っていた。「体調不良になり休め…」と。

 

バイトしていてお金はあったので、本屋で「これ、端から端までください」と、参考書を全買いし、ひたすら埋めていってた。

「普通になりたい」に、取り憑かれていた。

 

朝から塾の自習室が開くまでの間はカフェで。
そのあとは自習室で。
授業がある日は授業を受けて、帰ってからは布団をかぶって、その中でひたすら勉強していた(家がワンルームで、母が「眩しくて眠れない!」と怒っていたため)

 

受験費用などを稼がねばで、バイトは週2〜3に減らしても、続けていた。
理解があるバイト先で、釜飯を作りながら、キクタンやゴルゴ古文のCDをリピート再生することを許してくれていた。

 

学校の授業は、過去問を解く時間に充てていた。
当てないでくれていたし、やらないでもテストは満点が取れているので許されていた。

 

一番上のクラスの高校3年生の内容は、国語は小学生レベルの漢字テスト、数学は2桁までの括弧付き四則演算、社会はニュース見てれば答えられる時事問題、理科は天気の種類など生きてればわかること、英語は果物の名前とか。

 

あの時、必死に勉強して得た知識なんて、世間に比べたら1/100000くらいなんだけど、それすらしなかったら、私はどうなっていたんだろうと思うと、怖い。

 

模試も毎週土曜日に、どこかしらの何かしらを必ず受験していた。

最初は32から始まった偏差値も、徐々に上がっていき、部活終わり組が入ってくる前には最高72まで達した。英語がまあまあできたのがでかかった。

 

部活終わり組が入ってきて、人生で初めて好きになった三次元の人間・ポルノグラフィティ新藤晴一が結婚、ELLEGARDENの活動休止、と、トリプルコンボで-30し、その後はずっと40〜50台を永遠にうろうろした。

 

それでも、必死にしがみついていた。

絶対に大学に入って「普通」になるんだ、と。

 

センター試験の申し込みも、学校で団体受験ではなく、個人で申し込んだ。受験費用、本当に重かった…。

センター当日の朝、母に「今日、センター試験だから、お弁当作って」と頼んだら「センター試験って、何?」と言われて笑ったことを、今でも深く覚えている。

この母のもとで育ったら、そりゃ普通とはズレるわ、と。

 

結局コンビニ弁当を買って、明治学院大学の横浜キャンパスで、違う学校の団体受験に紛れて1人で受験した。

みんな同じ制服を着ている中、ひとり私服で。
「あいつ誰?」を、何回も耳にした。

 

絶対に、みんなと同じ「普通になる」と、この時も、思った。

 

その後の一般受験も、交通費と受験費で財布を痛めつつ、頑張った。

 

執念の甲斐あり

明治学院大学 社会学

東洋大学 社会学

国士舘大学 文学部

の3つに合格し、東洋大学へ進学した。

 

大学選びの時に軸にしていたのが「学生生活」だった。

良い学生生活を送るために必要だと感じたのが

・学食が美味しい:おいしくて安いごはんに勝る幸せは、ない

・こわい人がいない:慶応のギャルがショックだった。友達になれそうな人は多い方がいい

・取ってない授業でも忍び込める:勉強が好きだと気付いたから、空き時間でも他の授業を受けたかった

の3つの評価が自分的に一番高かったのが東洋大学だった。

 

塾長は泣いて喜んでくれたし「なんで一番偏差値高い明治学院行かないの?!」と言っていた。
ごめん、東洋の方が学食がおいしかったの…

 

大学

金髪で入学式行ったら学科に友達ができなかったとか、お金なくて病院行くの我慢してたら試験期間中に緊急入院手術して単位を落とし留年とか、バンドサークルに入り浸りすぎてバンドしかやってなかったとか、単位がSとAとDとEしかないみたいな極端な評価だったりとか、怪我して入院して車椅子登校したりなど、色々あったが、全体的に言えば「普通には、なれなかった」

 

唯一所属していたバンドサークルで「天才だ天才だ」と言われていたけれど、結局経験不足が故のコミュニケーション下手で、疎遠になった。

LINEグループはあるが、私だけ入ってないとか、判明しても入れてはもらえないとか。やっぱり、そういうことはたくさんあった。

 

一生懸命に頑張ってはいたけど、空回りばかりして、疎外感が拭いきれない5年間ではあった。

 

勉強に困ったのは1度だけ、必修の統計の授業で平方根を見た瞬間に記憶が飛び、試験の記憶もない。
しかし、なぜかBで取れてる。世の中には不思議なことがたくさんある。

受験勉強のおかげで、漢字と英語は常人レベルで入れたことと、本は読めるタチだったため、周りと比べて極端に勉強ができない、ということは、なかった。

 

ただ、コミュニケーションは、本当に、下手だった。
暗黙の了解に関する知見や、経験が、少なすぎた。

 

その後

同窓会も、結婚式も呼ばれなくて。
大学の同期、って呼べる友達は1人だけ、一瞬所属してた別サークルの女の子。
あとは、誰とも連絡取ってない。

 

そんな、卒業してから約10年の時が過ぎた2021年12月。神に誘われ、競プロを始めた。

そこから、ちびむすドリルで小学校の算数を履修、中学も市販の本で頑張って、3日前にやっと、高校数学の基礎を理解できるまでに育った。

 

とにかく、普通に、なりたかった。

競プロをはじめてからも、何度も思った。

 

 普通に学校に通えていたら
 普通に授業を受けられていたら
 この問題は解けたのだろうか

 

でも、ある時、よく考えたらそうじゃないと気付いた。

 

同じレート帯の人は、同じことで悩むし、同じ勘違いをして、同じ問題が解けない。

競プロではレートがはるか上でも、わたしが寝てても書けるHTML/CSSに苦しんでる人もいる。

競プロやWebのこと、教えたり、教えられたり、相互関係を築いているうちに、いつの間にか「普通になりたい」の呪いは、消えていた。

 

ずっと、自分は「普通じゃない」から、人間関係がうまく行かないと思っていた。

「普通じゃない」を言い訳にして、「普通」を恨んで、責任転嫁して、またどうせ殴られる、ダメになる、仲間に入れてもらえない、と人間関係から興味を遠ざけていた。

 

そのおかげで、ひとりでも生きていける性質には育った。

人と関わるのは疲れる。慣れてないから、すごく消耗する。失敗もたくさんする。

ずっと仲良くいたかったのに、めちゃくちゃ失敗して、疎遠になってしまった競プロerも、いる。本当に、悲しい。

 

けれども、やっぱり、人と関わるのは楽しい。

 

競プロを始めてから、それを、痛いほど知ってしまった。

そういう、人とシェアできる悩みを持てた瞬間、やっと「普通」になれた気がした。

 

あとがき

3校目の中学の先生から頂いた、真っ白の「評定なし」とだけ書いてある通知表に貼ってあった付箋の言葉を〆にしたいと思います。

 

「オール0ではなく、評定なし、としました。あなたの頑張りは、現状の成績評価基準で測ることができませんでした。ここからは、人とは違った、自分で選ぶ、自分だけの人生の始まりです。頑張ってくださいね」

 

先生、わたし、どうやらいい感じに頑張れているようです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございまスター🤩