ぶりの根性焼き

いわゆるエッセイなのかもしれない

不登校児が願い続けた「普通になりたい」を忘れた話

爆誕

幼稚園時代からの培があるため、幼少期についても簡単に。

 

神奈川県鎌倉市にて爆誕。父親はフリーランスのカメラマン、母は自由人(という言葉がしっくりくる)で、家は大変に貧困…というか、事業が一杯一杯で、子供にお金をかける余裕がなかった、が正しいかも。

おやつはにぼしだったし、おもちゃも買ってもらえなかった。

 

3歳まで発語ができなく、その後も吃音に苦しんだ。

人がいると公園に入れなくて、いなくなるまで、入り口で待つ。
夜になってやっと人がいなくなってから、恐る恐る入り、ひとり無言でブランコを楽しむ。そういう幼少期だった。

 

幼稚園

近くにあるキリスト教の幼稚園に、年中から通った。

児童養護施設から通っている子たちと、鎌倉特有の裕福な家庭の子たちの間の、階級差がすっごかった。
私はどちらかというと施設の子といたけど、どちらともうまくコミュニケーションがとれなかった。話すというか、自分で考えたことを言葉にするのに激しく時間がかかるタイプで、いつも困って怒っていた。

早生まれで発育が遅いのもあって、ひとつ下の学年とは気が合い、いっしょになって黙ってずっと砂場を掘り続けてたら「同じ学年のこと遊びなさい」と、めちゃくちゃ叱られたこともあった。

なんかやってしまったのか、裕福側のお子様方に囲まれてボコボコにされたことをきっかけに、みんなが外にいる時間は、室内で水彩画を教えてもらうようになった。

 

この頃からぼんやり「漫画家になりたい」と思い始めた。

漫画やアニメは禁止されていたので、ずっと本を読んでいた。
幼稚園で貰った新約聖書を読み込んで、暗唱するのが趣味だったらしい。人の言葉で喋る練習をしていたみたい。

演劇の台本も丸暗記して、セリフもスラスラ言えていた。が、やっぱり自分の言葉では、なかなか話せなかった。

 

小学校

1〜2年生

近くの公立小学校に進学。
全学年1クラスで、30人くらい。当時、すでに少子化で過疎っていた。

そんな環境だから、一回失敗すると、逃げられなかったのかもしれない。
きっかけは忘れたけれど、1年生の時点でもう殴る蹴る、水槽でボコボコにするなど、身体的暴力系のいじめでサンドバッグになってた。

 

母は「学校行かないとどう育つか知りたいから、むしろ行かないでいいよ!学費かからなくてたすかるー!」と嬉しそうに言っていた。
父は特に何も言ってこなかった。というか、家にいた記憶が希薄。

 

給食のわかめごはんとソフト麺がものすごく好きだった。
それらを食べるために、たま〜に行くと「アレルギーか?」ってくらい高熱を出し、保健室で寝込んでいた。卒業式で頂いた、保健室記録の多さと高熱の頻度を見て、たまげた。

 

「もう自分は学校行けないんだろうな」と、ひたすら絵を描いていた。

 

この頃は「普通になりたい」的な渇望もなく、たまーに学校行ってわかめごはん食って殴られて、たまたまテストだと受けて、満点取ると「お前カンニングしただろ」って殴られて、まあ仕方ないかあ、みたいな。
悲壮感ではなく「体が小さくてうまく話せないから、仕方ないか」と思う、とてもスレた小学生だった。

 

思い出してみると、そういえば進研ゼミはやっていた。テストの点が良かったのは完全にそのおかげだ…
入ってくる広告の漫画に心が躍って、母に土下座して、家事をめちゃくちゃやって、受講を承諾してもらえた。それからはもう、かじりつくようにチャレンジしてた。
確か、家事を1日放置したかなんかで解約されて、とても悲しかった。お金なかったから、仕方ないね。

 

3年生

父の仕事に使うためのWindows98がきた。

都道府県パズルやソリティアにハマって、ダイヤルアップに負荷かけないために、どのデータは重くて軽いのか、など学び始めた。

学校には、相変わらずわかめご飯食べに行ってた。

パソコンに目覚めてからゲームがやりたくなり、近所の男の子の家に64をやりに行き始めた。その男の子もあまり話さない子だったので、ふたりでひたすらスマブラをやり、すごい日は一言も発さず帰る。が、ルーティンになっていった。

この頃から近所の教会のゴスペルグループに入り、歌い始めた。
ちなみに、わたしは無宗教。強いていうなら、二次元という宗教に…

 

4年

Windows98がダメになり、代わりに魔のOS、Windows MEが来訪。

起動時に9割ブルスクが出る。おかげでブルスクに慣れた。
ソフトのエラーかハードのエラーか、ソフトのエラーならOSなのかミドルウェアなのか〜みたいなのは、ここら辺で感覚的に覚えていった。

いつの間にか父の仕事を手伝っていたり、PCのトラブルが起きたら直す人になっていった。引っ越したので、ゲームはやらなくなっていった。

 

6年

母が今まで貯めていてくれた私のお年玉で、WindowsXPを買ってくれた。NECのデスクトップ。

ここらへんから、デジタルで絵を描き、お絵描きチャットに常駐し、自分の言葉を伝えるいちばんの手段が「キーボード」であることを知った。
文字なら饒舌に話せた。相手の言葉を読み直せるし、自分の言葉を書き直せるから。

 

そうやってネッ友(笑)も出来始め、学校にはほぼ近寄らなくなった。

 

お絵描き友達は、ホームページビルダー使って作ったサイトに絵を載せていた。
無料版は使いづらく、結局HTML、CSSCGIをブログで独学し、メモ帳で書いて無料サーバーにアップする小学生となった。

 

Web周りの言語を学んでいて、やっぱり学校通いたいなあ、けれども地元の中学は、小学校の人たちがほぼ全員行くからなあ…と悩んでいたら、母が「受験する?」と言ってくれた。

インターネットマン、Googleを駆使し「新設で先輩がいない」という中学を発見。これならいけるかも?!と期待に胸を躍らせ、小学2年生のチャレンジを引っ張り出してきて勉強した。
試験では8割以上「わからねえ」と鉛筆を転がした。
それでなぜ受かったのかは謎だが、まあ、新設の私立の偏差値なんてたかが知れていたのである。

 

 

中学

1校目・私立 / 1年生

はじめての中間テストまでは、週3日はなんとか通った。病弱すぎた。

中間テストで学年3位になった瞬間、また拳でボコられ始めた。
それまで「仲良い」と思い込んでいた、ひまわりが好きな女の子がわたしを笑いながら踏み潰してきたときから、しばらく、ひまわりを見られなくなった。

 

2校目・公立 / 1〜2年生

仕方ないので転校し、小学校の人たちがいるところに出戻りした。
もちろんうまくいくはずもなく、吃音や病弱なことを理由に「障害児学級に行けよ」と、はじめて精神的いじめを受けた。

拳で殴られていないのに身体が痛くて、めっちゃびっくりした。

 

その後、インターネットに引きこもり、暗黒の厨二を迎える。
「普通になりたい」は、この頃の厨二病が巻き起こした嵐だったのかも知れない。

 

3校目・公立 / 3年生

きっかけは忘れてしまったのだが、なかったのかも知れない。急に隣の学区の中学に転校して、がんばることにした。

ここでは、いじめを受けなかった。むしろ、クラスメイトが「どうしたら学校これるかなー?」と、正直にたくさん話しかけてくれて、そんな優しい扱いを受けるの初めてで、激しく戸惑った。めっちゃキモかったと思う。

 

高校受験は、することにした。やっぱり学校に行きたくて。
色々調べて、横浜にある、不登校の子が集まる全日制の通信(やることは普通の学校と一緒、制服もある。が、単位制で、カリキュラムも普通とは違う)に行くことにした。

 

この時に出会った塾の先生のおかげで、わたしはいま先生をやっている。
わたしが授業中に不安でしくしく泣いても、にこにこ笑いながら、泣き止むのをずっと待っていてくれた。
学校でもない、家族でもない良い大人の存在が、いつもわたしの肯定感を育ててくれた。
許されている 殴られない と。

将来、不登校の子たちにとって、こういう「学校でもない、家族でもない良い大人」になりたい、と、ずっと思っていたのが、いつの間にか叶っていた。

 

結局、卒業式は雨でしんどくて行けなかったけど、そのあとにあったサイゼでの集まりに呼んでもらえた。
オレンジジュースとコーラを混ぜたり、ミラノ風ドリアで粘り続けたり…この日、私は唯一の「中学生の青春の日」を経験できた。

ほんとに、誰1人として仲間外れにしなくて、すごいクラスだった。

ちなみに、サイゼに誘ってくれた女の子たちは、みんなして成人式で成人代表を務めていて「さすがだな」とおもった。輝いておった。

 

高校

結論から言うと、また2校行った。

1校目 / 1年生

わりとちゃんと高校生していた。
はじめて現実の彼氏(察してくれ)ができて、家行ったり、カップル同士の4人組でカラオケ行ったりとか。学校が桜木町だったから、授業後にワールドポーターズでやっすいアクセサリー買ったりとか。普通をしていた!

 

入学時の学力テストの結果が良かったらしく、一番上のクラスに入ったし、中間テストでもちゃんと全体10位以内には入れた。
が、中学に通ってない、不登校児童がコンセプトの学校なので、一番上のクラスと言っても、通常のカリキュラム通りではなかった。確か、負の数あたりをやっていた記憶。
因数分解なんて夢のまた夢だった。

 

そんな学校だから、いじめは起きないと思っていたし、もし起きたら、絶対に助ける、と思っていた。

 

初夏のとある日、いわゆる「学校裏掲示板」があると知り、クラスの女の子が誹謗中傷されているのを見た時は、また心を殴られて痛くなった。
なんとかしなきゃ、と考え、職員室に行った。情報の先生に、掲示板を見せながら「ネットリテラシーの授業をしてください」と頼んだところ

「お前は人のことばかり考えてないで、自分のことだけを考えないと、将来損するぞ。俺はそんな授業はしない」

と言われ、ぷちんっ!となり、殴りかかってしまった。
やはり、血は湘南のヤンキーだったようです…

 

他の先生たちに止められ、事件になるのは免れた。
が、もちろんそれから行きづらくなり、彼氏は仲良くしてた4人のうちのもうひとりの女の子に浮気して別れ、誹謗中傷されてた女の子は学校に来なくなった(そのあと復活したらしいが)

 

ちょうどこの頃、さかなクンの「広い海では、魚たちはいじめをしません。けれども、狭い水槽に入れると、一匹をターゲットにして、いじめ始めるんです。かわいそうなのでターゲットを他の水槽に移すと、また違う魚をターゲットにしていじめ始めます」という言葉を知った記憶がある。社会に虚しさを感じていた。スレている。

 

学費がまあまあ高かったので、家のお財布のことも気になり、学費が安いところを探して、転校することにした。

 

母が「荷物、代わりに取りに行こうか?」と言ってくれたけど、なんかダサいな、と思い、ひとりで、授業中に取りに行った。
周りの視線はもちろん痛かったけれども、この時の「ちゃんと自分一人でやった」という経験が、このあとの人生の、強さの根幹になっている。

 

2校目 / 1年生

11月ごろ転校。

「神奈川県 私立 偏差値ランキング」で調べると、毎年最下位にいる、特別養護学校?かなんかも兼ねている通信制へ行った。
入学費・年間学費を合わせても、高校生のアルバイト代で払えるところだった。試験も、名前がひらがなで書ければOK。なんなら書けなくても入れた。
通学は週2日、うち1日は小学生レベルの英国数理社の授業、もう1日は「ゼミ」と呼ばれる、課外活動みたいなものをやっていた。
私は国際ゼミに入り、なんか、英語的な何かをやっていた。ほぼ記憶にないので、寝てた気がする。
通常授業は学力別に4段階でクラス分けされていて、1番下はアルファベットの書き順を3年間やり続け、1番上でも小学校高学年レベルの内容だったので、睡眠時間が増えた。
HRをやるクラスというか、自分の担当の先生、はいたけれど、生徒の入れ替わりが激しい(転校・行方不明・死亡…が日常的にあった)ため、他の人の名前はほぼ知らなかった。

 

1年生が終わるまで前の学校に通っていれば単位が移せたけれども、時期的にできず、1年分の単位を4ヶ月で取ることになった。
ここら辺は大学と同じで、レポートを出せば単位が取れる。ひたすら新聞紙を切り抜いて、感想を書いたりした。
おかげで無事、2年生になれた。

 

2年生

通っている学生は、とんでもなく様々だった。

中卒で社会に出てから入り直した土方のおっさん、芸能界を目指している2つ上のジャンヌのyasu被りの歌がまあまあうまい人、1日中冷蔵庫を開けたり閉めたりを繰り返す知的障害の男の子、モデルをやっていてなかなか学業に時間が割けない女の子、少年院から出たてで盗み癖がある女の子、お母さんが不倫相手と住んでて家に帰れなく、毎晩渋谷のクラブで泊めてくれる男を探すギャル、めっちゃ背高くてムキムキの暴走族のリーダーのギャル男、「今日は尾形先生のコスプレです」と、ようわからんが毎日コスプレをしてくるオタク、、など。

私服登校なので諸々自由だったし、誰もが「普通の高校生」では、なかった。

 

暇なので、週5日はバイトをし始めた。
デリバリーのキッチンで釜飯職人をやっていて、扶養ギリ超えるか超えないかの瀬戸際を攻めていた。
ここでたくさんの大学生と仲良くさせていただき、大学生、いいなあ。なりたいなあ。と思い始めた。

 

めっちゃバイトしてめっちゃライブ行ってめっちゃギター弾いてた。
バンドは、やりたかったけど、一緒にやれる人がいなかった。

一番仲良くしていた友達も音楽好きで、ベースを弾いてくれていたけど、ドラムがいなかった。
正しくはベースの女の子の彼氏が挑戦したが、いつの間にか辞めてたし別れていた。

結局「自分でドラム叩いて、録音して、流すか」という発想に至り、叩いたらよくわからんができたので、そのスタイルで練習していた。

 

人生初めての文化祭で、ELLEGARDENの高架線と、BUMP OF CHICKENメーデーを、座って歌って弾いた(もちろん、ドラムを叩いた録音も流した)

男装コンテストに飛び入りしたら、なんと優勝した。
性別がどちらでもない、の感じは、昔からあったけど、気づかなかったな。

 

そんな学校独特のエピソードを3つ

 

〜そのいち:暴走族のプロポーズ〜

ある日、授業中に轟音が聞こえてきて「なんだ?」って外を見たら、大量の白装束集団がバイクに乗って向かってきていた。
わらわらと窓際に人が集まり、暴走族たちが学校まえのスペースに止まると、リーゼントの男がバイクの上に立った。

 

「ゆかりいいい!!!俺、今日の喧嘩、絶対勝つから!!そしたら…結婚しよう!!!!」

 

名前を知らんギャルが「ゆうた…!!」と涙を溢している。
そうか、あなた、ゆかりっていうのね…と、状況がわかったらまた机に戻って寝てた。(何が起こっても基本的に驚かない性格はここで培われた)

 

〜そのに:リスニング不可能なTOEIC

国際ゼミで「TOEICに挑戦しよう!」という回があって、先生が頑張って教室受験できるようにしてくれた。

が、試験中に障害ある子が叫びまくっていたり、ギャルたちが大はしゃぎしていてリスニングが全て聞こえなかった。確か300点くらいだった気がする。

 

〜そのさん:モンハンは平和〜

ちなみに、いじめは、なかった。

休み時間に、ギャル、ギャル男、知的障害の子、オタク、が4人で必死にモンハンやっているのを見た時、ちょっとびっくりした。
どんなジャンルの人間も「棲み分け」をしっかりしつつ、やることは協力して一緒にやる、みたいな。そういう大人さはすごくあった。
おそらく、学校外での世界で過ごしてる時間が多い人ばかりだからだろうか。連れションとか、そういう変な馴れ合いとかはなかった。そういうところは、今でもとても尊敬している。

 

そんな学生生活で諸々マヒすることはあったけれども、バイトで社会性を保てていた。サンキューバイト。

 

高校3年生

初夏のとある日。
職員室前でパピコを開けた瞬間、急に「普通になりたい」と強く思った。
そして「そうだ。大学に入ろう!」となり、すぐ目の前にいた先生に聞いた。

「どうしたら大学に入れるかな」と、聞いたら「うちの学校からじゃ、系列の大学にしか推薦は出せないし、AOも実績がない。一般受験で受かった子も数人しかいなくて、全員塾に任せきりだったから、ごめん。何も力になれない」とのこと。

 

まじか〜…とがっかりはしたけれど諦めず、中学生の時通っていた塾のことを思い出した。

帰ってから母に伝えると「まあ、やってみなよ」とのことで、後日面談に行った。

 

塾長さんには、まず一番に「無理だと思う。浪人は覚悟してね」と、釘を刺された。

全てが抜け落ちてることも知ってくれていたし、ふだん全く勉強していないのも、もちろん話した上で。
通常の高校3年生が持ってる学力がほぼゼロの状態から、半年で受験レベルに持っていき、戦えるようにするのは、そりゃどう考えても不可能だった。

 

なので、まずは「絞る」ことにした。

受験科目が一番少ないのは慶應大学SFC(湘南藤沢キャンパス)で、小論文と英語さえできれば大丈夫、なので、そこに特化していこう、という話になった。

後日、SFCに行ったら、ギャルが多すぎてこわくて泣いた。

同級生の泥臭い強かなギャルとは違った、こう、笑いながら平気で人を刺しそうな明るさを感じ、ダメだった。

 

つらさのあまりその足ですぐ面談に行き、選択肢を増やしつつ科目を絞ると

・現代文

・古文

・政治経済

・英語

の4つになった。

 

我が家のお財布的に、2on1の授業を週2コマが限界だったため

・英語

・政治経済 / 現文 / 古文

の2コマを、週に1回ずつ。
基本的に自主学習して、授業ではわからないところを60分間ひたすら質問攻め、みたいな感じになっていた。
隣の子には申し訳なさと共に、よく呪っていた。「体調不良になり休め…」と。

 

バイトしていてお金はあったので、本屋で「これ、端から端までください」と、参考書を全買いし、ひたすら埋めていってた。

「普通になりたい」に、取り憑かれていた。

 

朝から塾の自習室が開くまでの間はカフェで。
そのあとは自習室で。
授業がある日は授業を受けて、帰ってからは布団をかぶって、その中でひたすら勉強していた(家がワンルームで、母が「眩しくて眠れない!」と怒っていたため)

 

受験費用などを稼がねばで、バイトは週2〜3に減らしても、続けていた。
理解があるバイト先で、釜飯を作りながら、キクタンやゴルゴ古文のCDをリピート再生することを許してくれていた。

 

学校の授業は、過去問を解く時間に充てていた。
当てないでくれていたし、やらないでもテストは満点が取れているので許されていた。

 

一番上のクラスの高校3年生の内容は、国語は小学生レベルの漢字テスト、数学は2桁までの括弧付き四則演算、社会はニュース見てれば答えられる時事問題、理科は天気の種類など生きてればわかること、英語は果物の名前とか。

 

あの時、必死に勉強して得た知識なんて、世間に比べたら1/100000くらいなんだけど、それすらしなかったら、私はどうなっていたんだろうと思うと、怖い。

 

模試も毎週土曜日に、どこかしらの何かしらを必ず受験していた。

最初は32から始まった偏差値も、徐々に上がっていき、部活終わり組が入ってくる前には最高72まで達した。英語がまあまあできたのがでかかった。

 

部活終わり組が入ってきて、人生で初めて好きになった三次元の人間・ポルノグラフィティ新藤晴一が結婚、ELLEGARDENの活動休止、と、トリプルコンボで-30し、その後はずっと40〜50台を永遠にうろうろした。

 

それでも、必死にしがみついていた。

絶対に大学に入って「普通」になるんだ、と。

 

センター試験の申し込みも、学校で団体受験ではなく、個人で申し込んだ。受験費用、本当に重かった…。

センター当日の朝、母に「今日、センター試験だから、お弁当作って」と頼んだら「センター試験って、何?」と言われて笑ったことを、今でも深く覚えている。

この母のもとで育ったら、そりゃ普通とはズレるわ、と。

 

結局コンビニ弁当を買って、明治学院大学の横浜キャンパスで、違う学校の団体受験に紛れて1人で受験した。

みんな同じ制服を着ている中、ひとり私服で。
「あいつ誰?」を、何回も耳にした。

 

絶対に、みんなと同じ「普通になる」と、この時も、思った。

 

その後の一般受験も、交通費と受験費で財布を痛めつつ、頑張った。

 

執念の甲斐あり

明治学院大学 社会学

東洋大学 社会学

国士舘大学 文学部

の3つに合格し、東洋大学へ進学した。

 

大学選びの時に軸にしていたのが「学生生活」だった。

良い学生生活を送るために必要だと感じたのが

・学食が美味しい:おいしくて安いごはんに勝る幸せは、ない

・こわい人がいない:慶応のギャルがショックだった。友達になれそうな人は多い方がいい

・取ってない授業でも忍び込める:勉強が好きだと気付いたから、空き時間でも他の授業を受けたかった

の3つの評価が自分的に一番高かったのが東洋大学だった。

 

塾長は泣いて喜んでくれたし「なんで一番偏差値高い明治学院行かないの?!」と言っていた。
ごめん、東洋の方が学食がおいしかったの…

 

大学

金髪で入学式行ったら学科に友達ができなかったとか、お金なくて病院行くの我慢してたら試験期間中に緊急入院手術して単位を落とし留年とか、バンドサークルに入り浸りすぎてバンドしかやってなかったとか、単位がSとAとDとEしかないみたいな極端な評価だったりとか、怪我して入院して車椅子登校したりなど、色々あったが、全体的に言えば「普通には、なれなかった」

 

唯一所属していたバンドサークルで「天才だ天才だ」と言われていたけれど、結局経験不足が故のコミュニケーション下手で、疎遠になった。

LINEグループはあるが、私だけ入ってないとか、判明しても入れてはもらえないとか。やっぱり、そういうことはたくさんあった。

 

一生懸命に頑張ってはいたけど、空回りばかりして、疎外感が拭いきれない5年間ではあった。

 

勉強に困ったのは1度だけ、必修の統計の授業で平方根を見た瞬間に記憶が飛び、試験の記憶もない。
しかし、なぜかBで取れてる。世の中には不思議なことがたくさんある。

受験勉強のおかげで、漢字と英語は常人レベルで入れたことと、本は読めるタチだったため、周りと比べて極端に勉強ができない、ということは、なかった。

 

ただ、コミュニケーションは、本当に、下手だった。
暗黙の了解に関する知見や、経験が、少なすぎた。

 

その後

同窓会も、結婚式も呼ばれなくて。
大学の同期、って呼べる友達は1人だけ、一瞬所属してた別サークルの女の子。
あとは、誰とも連絡取ってない。

 

そんな、卒業してから約10年の時が過ぎた2021年12月。神に誘われ、競プロを始めた。

そこから、ちびむすドリルで小学校の算数を履修、中学も市販の本で頑張って、3日前にやっと、高校数学の基礎を理解できるまでに育った。

 

とにかく、普通に、なりたかった。

競プロをはじめてからも、何度も思った。

 

 普通に学校に通えていたら
 普通に授業を受けられていたら
 この問題は解けたのだろうか

 

でも、ある時、よく考えたらそうじゃないと気付いた。

 

同じレート帯の人は、同じことで悩むし、同じ勘違いをして、同じ問題が解けない。

競プロではレートがはるか上でも、わたしが寝てても書けるHTML/CSSに苦しんでる人もいる。

競プロやWebのこと、教えたり、教えられたり、相互関係を築いているうちに、いつの間にか「普通になりたい」の呪いは、消えていた。

 

ずっと、自分は「普通じゃない」から、人間関係がうまく行かないと思っていた。

「普通じゃない」を言い訳にして、「普通」を恨んで、責任転嫁して、またどうせ殴られる、ダメになる、仲間に入れてもらえない、と人間関係から興味を遠ざけていた。

 

そのおかげで、ひとりでも生きていける性質には育った。

人と関わるのは疲れる。慣れてないから、すごく消耗する。失敗もたくさんする。

ずっと仲良くいたかったのに、めちゃくちゃ失敗して、疎遠になってしまった競プロerも、いる。本当に、悲しい。

 

けれども、やっぱり、人と関わるのは楽しい。

 

競プロを始めてから、それを、痛いほど知ってしまった。

そういう、人とシェアできる悩みを持てた瞬間、やっと「普通」になれた気がした。

 

あとがき

3校目の中学の先生から頂いた、真っ白の「評定なし」とだけ書いてある通知表に貼ってあった付箋の言葉を〆にしたいと思います。

 

「オール0ではなく、評定なし、としました。あなたの頑張りは、現状の成績評価基準で測ることができませんでした。ここからは、人とは違った、自分で選ぶ、自分だけの人生の始まりです。頑張ってくださいね」

 

先生、わたし、どうやらいい感じに頑張れているようです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございまスター🤩